簿記の勉強を始めると、どこかで必ずこの話に出会います。
電卓は左手で打てるようになったほうがいい。
言われてみれば、確かにそうかもしれない。でも今から練習して間に合うのか。慣れない手で打って、かえって遅くなったりミスが増えたりしないか。そもそも、そこまでやる必要があるのか。
この記事では「やるべき」とも「やらなくていい」とも書きません。自分で判断できる基準をお渡しします。そのために、まず左手打ちの正体をはっきりさせます。
省けるのは時間ではなく、意識
左手打ちは、速く打つための技術ではありません。指の速さで言えば、利き手のほうが速いに決まっています。
左手打ちが消しているのは、別のものです。
ペンと電卓の、持ち替え。
右手にペンを持って解いていて、計算が必要になる。ペンを置く。電卓を打つ。答えをメモするためにペンをまた持つ。——この往復が、簿記では何度も起こります。
ここで多くの人は「その1秒が積み重なると時間のロスになる」と考えます。それも事実ですが、本当に効いているのはそこではありません。
持ち替えのたびに、あなたの意識は一瞬ペンに向きます。どこに置いたか、どう持ち直すか。ほんの一瞬ですが、その間だけ問題から注意が離れます。左手で打てる人は、この中断が起きません。
つまり左手打ちで省けるのは、時間というより意識です。ペンに向けていた注意が、まるごと問題に残る。これが正体です。
正確には「左手」ではなく「ペンを持たない手」
ひとつ言葉を直しておきます。世の中では「左手打ち」と呼ばれますが、正確には「ペンを持たない側の手で打つ」という意味です。
左利きの方が左手にペンを持っているなら、練習すべきは右手です。「左手」という言い方に引きずられて、利き手にペンを持ち替える必要はありません。
根拠1:先にやるべきことがある(メモリー機能)
順番の話をします。持ち替えを減らしたいなら、左手打ちより先に手をつけるべきものがあります。
電卓のメモリー機能です。M+ で途中の数字を電卓に預けてしまえば、そもそも紙に書く回数が減ります。書かなければ、ペンを持ち直す必要もありません。
つまりメモリー機能は、持ち替えの発生そのものを減らす。左手打ちは、残った持ち替えをゼロにする。役割が違います。
そして両者は、必要な投資がまったく違います。メモリー機能は覚えるのに5分。左手打ちは身につくまでに数週間。どちらを先にやるべきかは、比べるまでもありません。
試験時間は3級が60分、2級が90分です(商工会議所公表)。時間が足りないと感じているなら、先にメモリーを覚えるほうが、確実で速い解決になります。
根拠2:始めた直後は、必ず遅くなる(Fitts & Posner 1967)
「かえって遅くなるのでは」という不安は、正しい直感です。実際、最初は遅くなります。
運動技能の習得については、フィッツとポズナーが1967年に示した古典的なモデルがあります(Human Performance)。新しい動作を身につける過程は、次の3段階をたどるとされます。
- 認知期:動作は遅く、不安定で、非効率。強い意識的な注意を必要とする
- 連合期:動作が滑らかになり、誤りが減って安定してくる。まだ多少は意識が要る
- 自動化期:正確・安定・効率的になり、ほとんど意識を使わずにできるようになる
ここで注目してほしいのは、最初の認知期です。始めたばかりの左手は、意識を大量に食います。「省けるのは意識」と書いたのに、練習を始めた直後はむしろ意識を余計に取られるということです。
だから結論は明確です。
試験の直前に始めてはいけません。本番で認知期の左手を使うのは、最悪の選択です。逆に言えば、試験まで時間があるなら、通るべき谷が分かっているぶん怖くありません。
根拠3:上位級ほど語られている、という事実
もう一つ、判断材料になるデータがあります。誰がこの話を検索しているかです。
「簿記 電卓 左手」と入力すると、検索候補にはこんな組み合わせが並びます。
- 簿記2級 電卓 左手
- 簿記1級 電卓 左手
- 簿記論 電卓 左手
気づくことがあります。級が上がるほど、この話題が語られている。3級と組み合わせた検索は、ほとんど出てきません。
理由は単純で、級が上がるほど計算量が増えるからです。持ち替えの回数が10回なら消せる意識も10回分ですが、100回なら100回分になります。投資が回収できるかどうかは、計算量で決まります。
ここから言えることは、はっきりしています。
- 3級だけが目的なら、急ぐ必要はありません。メモリー機能を覚えるほうが費用対効果は上です
- 2級以上に進むつもりなら、投資する価値があります。先が長いほど回収できます
- 経理として仕事で使うなら、迷わずやったほうがいいです。試験が終わっても使い続けるからです
「持ち替え」が消えた先に残るもの
——今までのあなた。
問題を読んで、計算が必要になります。ペンを置きます。電卓を打ちます。答えが出たので、ペンを探して持ち直します。書きます。また計算——視線と手が、問題用紙と電卓と筆記具の間を往復し続けています。
——ペンを持たない手で打つ、これからのあなた。
右手はペンを持ったままです。左手が電卓を叩き、答えが出たらそのまま書く。手を持ち替える動作がないので、視線が問題用紙から離れません。解いている間ずっと、頭は問題の中にいます。
ペンのことを、考えなくていい。
少し、私自身の話をさせてください。
私はQC検定2級とFP3級で電卓を使いましたが、左手打ちはしていませんでした。やっていたのは、まさに上に書いた「今までのあなた」のほうです。ペンを置いて、電卓を使って、また持つ。それが当たり前だと思っていて、疑ったこともありませんでした。
今回この記事のために整理してみて、なるほどと思ったのはここです。
ペンを持つ時間が省けるだけじゃない。ペンへ意識を向ける必要がなくなるから、問題に集中できる。
正直に書くと、私は「左手で打てるようになって良かった」と語れる立場にはいません。メモリー機能のときと同じで、知らないまま終わった側です。
ただ、だからこそ言えることがあります。これは知っていれば選べたことでした。やるかやらないかは人によって違っていい。けれど「そういう選択肢がある」と知らないまま試験当日を迎えるのは、もったいない。
次に問題を解くとき、持ち替えを数えてください
最後に、判断の仕方をお渡しします。難しいことはしません。
次に問題集を解くとき、ペンを置いた回数を「正」の字で数えてください。大問1つ分で構いません。
数え終わったら、こう考えます。
- 数回だった → 今は不要です。メモリー機能を覚えるほうが効きます
- 何十回もあった、そして2級以上に進む → 投資する価値があります。ただし試験まで最低でも1〜2か月ある時期に始めてください。認知期を本番に持ち込まないためです
始めると決めたなら、やり方も単純です。いきなり本番形式で使わないこと。まずは計算だけの練習で、数字を見ながらでいいので左手で打つ。慣れてきたら問題を解きながらに移す。順序はこれだけです。
そして、これで電卓の話は終わりです。この3本で必要なことは出そろいました。
電卓は道具です。ここに時間をかけすぎないことが、いちばん大事だと思っています。3つとも決まったなら、あとは問題を解く時間に回してください。
参考文献・出典
- 日本商工会議所「簿記 試験科目・注意事項」(試験時間・合格基準) https://www.kentei.ne.jp/bookkeeping/class3/exam
- Fitts, P. M., & Posner, M. I. (1967). Human Performance. Brooks/Cole.(技能習得の3段階)

